2016年01月02日

日本代表レジェンド FW釜本邦茂

日本代表レジェンド
釜本邦茂


参照:https://youtu.be/WCu7VDEmcZA

フォワードのレジェンドである釜本邦茂氏。
「日本にとって初めてのスーパースター。
17年間で250以上のゴールを積み重ねてきた選手」


20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂
1968年のメキシコオリンピックで得点王となり、
日本を銅メダルに導いた。


【30年前の日本が生んだ世界クラスのストライカー】

オリンピックの得手王は世界ランク

オリンピックといえばワールドカップよりレベルは落ちる大会と見られている。
それでも東京オリンピックで優勝したハンガリーは、
2年後のW杯イングランド大会で準々決勝へ進み、

1972年年(昭和47年)のミュンヘン・オリンピックで
金メダルのポーランドは、W杯西ドイツ大会(1974年)では
イタリアやアルゼンチンを抑え、ブラジルに勝って3位となった。

こうした東欧社会主義国はいずれも国の威信にかけての
オリンピックであり、いわゆるステートアマ
(国のバックアップを受け、プロのような環境に恵まれているアマチュア)
の代表チームには西欧、南米のチームには対抗できないのが、

1952年(昭和27年)のヘルシンキ・オリンピック以来、
20数年の例だった。その中で、アウトサイダーともいえる
日本代表が3位を占めた。


オリンピックの得点王といえば、1948年(昭和23年)
のロンドン大会で7ゴールを挙げたスウェーデンの

G・ノルダールは後にイタリアのセリエAで大活躍し、
1964年の東京で12得点したベネ(ハンガリー)は
ワールドカップでもブラジルを倒すゴールを決めている。


1972年のミュンヘンでの得点王のディナ(ポーランド)は、
1974年(昭和49年)のW杯西ドイツ大会のスターとなり、
同じとき6得点で3位となったブロヒン(ソ連)は、

ディナモ・キエフのエースとしてベッケンバウアーの
バイエルン・ミュンヘンを破っている。

そうした世界的ストライカー群の中に、
アジア・サッカー界からただ一人、
名を連ねているのが釜本邦茂である。


釜本邦茂
身長 179cm
体重 79kg

右、左、ヘディング、なんでもOK


メキシコ・オリンピックでの釜本のゴール

▽1次リーグ
 対ナイジェリア(3−1)3得点
 対ブラジル(1−1)1アシスト
 対スペイン(0−0)

▽準々決勝
 対フランス(3−1)2得点2アシスト

▽準決勝
 対ハンガリー(0−5)

▽3位決定戦
 対メキシコ(2−0)2得点

6試合7ゴール、2アシスト。そのうちわけは、
右足シュート4点、左足シュート2点、

ヘディング1点、アシスト(ともに渡辺正のゴール)はヘディングのパス、
右足のパス各1となっている。


足のシュートには、ドリブル・シュート、胸で止めてのシュート、
ダイレクト・シュートなどがあって、
自分で切り開いてシュートへ持っていくことも、
仲間のパスを受けてトラップ(胸も含め)してシュートすることも、
止めないでシュートすることもできた。


またヘディングは直接ゴールにたたき込むのも、
仲間の走り込む地点へ落とすことも、
その時々に正確なプレーのできたことをこの記録からも知ることができる。


このオリンピックでの活躍で、彼は同年秋にブラジルで開催された
ブラジル代表対FIFA選抜の試合に、FIFAチームの一人に選ばれた。

日程などの都合で参加しなかったが、もし参加していれば、
世界の評価はまた高まって、彼の人生はまた違ったものになったかもしれない。

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http://ossmndst.com/wp-content/uploads/2015/07/cbddbf246f1adc79d5217893fede2048.jpg
参照

釜本邦茂(かまもと・くにしげ)
(財)日本サッカー協会副会長、
   2002年FIFAワールドカップ日本組織委員会理事、
   前参議院議員

(1944年)4月15日、京都市に生まれる。
(1951年)4月、京都・太秦小学校入学、4年生からサッカーに親しむ。
(1957年)4月、京都・蜂ヶ岡中学入学。
(1960年)4月、京都・山城高校入学。10月、熊本国体で山城高校が優勝。
(1962年)1月、高校選手権準優勝。4月、ユース代表で初の海外遠征。
(1963年)4月、早稲田大学商学部入学。4月、ユース代表で2度目の海外遠征。
        11月、関東大学リーグで早大が優勝、釜本は得点王(11点)。
        以来4年連続得点王。


(1964年)1月、第43回天皇杯で早大が優勝。
      3月、日本代表チームの東南アジア遠征に参加。
10月、東京オリンピックに出場、アルゼンチンを破りベスト8に。
(1966年)12月、第5回アジア大会(バンコク)に出場、3位。
(1967年)3月、66年度最優秀選手に選ばれる。
     4月、ヤンマーディーゼルに入社、日本リーグに初登場。
     9月、メキシコ・オリンピックのアジア予選に出場、日本が代表に。
(1968年)1月、西ドイツに留学。
     10月、メキシコ・オリンピックで日本は銅メダル、釜本は7得点で得点王に輝く。
(1969年)1月、天皇杯でヤンマーが初優勝。
     3月、2度目の年間最優秀選手に。
     6月、ビールス性肝炎で入院。
ワールドカップ予選を欠場、日本リーグには途中から復帰。
(1970年)11月、日本リーグで68年に次いで2度目の得点王。
     12月、第6回アジア大会では日本は4位(釜本は3得点)。
(1971年)9月、ミュンヘン・オリンピック予選で日本は敗退。
         11月、日本サッカーリーグでヤンマーが初優勝。
(1972年)3月、71年度最優秀選手に(3度目)。
     7月、マレーシアでのムルデカ大会で得点王(15得点)。
(1973年)西ドイツ・ワールドカップ予選で敗退。
(1974年)6月、欧州遠征、ワールドカップ見学。
     9月、第7回アジア大会1次リーグで敗退。
     12月、日本リーグでヤンマーが優勝(2度目)、釜本は4度目の得点王。
(1975年)1月、天皇杯でヤンマー優勝(3度目)。
     3月、4度目の年間最優秀選手。
     12月、日本リーグで3度目の優勝、釜本は5度目の得点王。
(1976年)3月、モントリオール・オリンピック予選で日本敗退。
     3月、5度目の年間最優秀選手。
     6月、タイのクイーンズ・カップでヤンマーが優勝。
(1977年)3月、ワールドカップ予選で日本敗退。
     6月、日韓定期戦で日本代表を引退。
     9月、ペレの引退試合で釜本も引退セレモニー。
(1978年)2月、ヤンマーのプレーイング・マネジャーとなる。
(1979年)9月、日本リーグで200試合出場。
(1980年)10月、監督就任3年目、自らプレーもして優勝。
     12月、ユニセフ・チャリティー・マッチに出場(バルセロナ)。
(1981年)3月、6度目の年間最優秀選手に。
     11月、対本田戦でリーグ通算200ゴール達成。
(1982年)5月、対日立戦で202ゴールを達成。
     5月、対マツダ(東洋工業)でアキレス腱を切断。
(1983年)11月3日、1年6ヶ月ぶりで日本サッカーリーグ出場。
(1984年)1月、天皇杯決勝で現役最後のプレー。
     2月13日、現役引退を発表。
     8月25日、国立競技場で引退試合。ペレ、オベラーツも友情出場。
(1985年)2月、ヤンマー監督を辞任。
(1991年)7月、Jリーグ入りする松下電器(ガンバ大阪)の監督に就任。
(1995年)1月、ガンバ大阪監督を辞任。7月、参議院議員当選。
(1998年)7月、日本サッカー協会副会長に就任。
(1999年)7月、2002年強化推進本部長に就任。
(2000年)7月、労働総括政務次官に就任(12月6日、退任)。



【記 録】

*日本代表最多得点(Aマッチ)75試合72得点
*日本代表最多得点(親善試合、対クラブ試合を含む)241試合168得点
*メキシコ・オリンピック(1968年)最多得点、6試合7得点
*ムルデカ大会(1972年)最多得点、6試合7得点
*日本サッカーリーグ(1967〜1974年)最多得点、251試合202得点
*日本サッカーリーグ最多アシスト251試合79アシスト
*日本サッカーリーグ・東西対抗最多得点、西軍13試合21得点
*日本サッカーリーグ最多得点王、7回
*日本サッカーリーグ最多アシスト王、3回
*関東大学リーグ得点王、連続4回

kama03.jpg
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/sport/mandara/img/kama03.jpg参照

カマモト、カマモト、世界の評価
「彼が参加していたら、世界選抜チームはペレのいるブラジル代表に勝てただろう」
(1968年秋、対ブラジル戦に出場した世界選抜のGKレフ・ヤンソ=ソ連)

「日本の少年たちは、立派な手本であるカマモトに学べばよい」
(1984年、釜本の引退試合に参加したペレ)

「日本代表の強化策? ナンバーワンの選手を使えばよいじゃないか」
(1980年日本代表と対戦したヨハン・クライフ。釜本が代表に入っていないのを見て)

「引退試合に6万人も集めるなんて、驚くだけだ。
こういう試合でもゴールするのだから…」
(1984年、釜本の引退試合に参加したヴォルフガンク・オベラーツ=西ドイツ)

「グレート・カマモトと、うちの若いDFでは──やられてもしょうがない」
(1979年、ニューヨーク・コスモスのマッカセイコーチ。
彼に同点ゴールを決められて)

サッカー日本代表大百科
posted by サッカー侍 at 14:55| Comment(0) | サッカー日本代表 レジェンド | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする